
脚下照顧
自分の足下を照らし顧みるべし。
これは簡単なようでなかなか出来ないものです。私たちは、つい自分の居場所を見捨てて、ふらふらと迷い、よそ事に魅了されて他所に行ってしまうという行動に陥りがちです。身に直結しているこの自分のものはなかなか見ようとしない。見えなくなってしまうので、見えるように照らしておけという教えなのです。
日常生活で捜し物をするなんていう時に案外、普段の身近な処で見つかったりします。先日、車の鍵を失ったと思って家の中や庭やらを方々探し回りましたが、結局は、いつもの鍵を置くところにあったという気の浮ついた出来事がありました。
これを思うに、現代の文明社会にはあまりにも多くの物や情報が人間の処理能力以上に溢れていて、本当に欲しい物は何か、何処に探しに行ったらよいのか、どのように行動してよいのか等々が判からなくなっているように思うのです。
こういうときは自分の居場所、元々に居た処、元々有った処を見直せば良いのです。つまり足もとを見るということです。基本に戻れば良いのです。道に迷ったら、面倒でもスタート地点に戻れば良いと昔から言われています。
絨毯よりも畳がいい、ハンバーグよりもやっぱり米の御飯が旨い、庭先の茗荷を天ぷらにして食べるのが一番美味しい、ということではないだろうか。ところが、米はブランド品にされ値が高い、油っぽい食物だらけ、畳みは若者に嫌われるというふうに、年寄りのひがみになってしまうが、自分が元々親しんでいるものがどんどん生活から遠ざかっているような昨今です。
かつて人間は太陽を毎日拝みました。燦々とした朝日を混じり気なしで丸抱えで拝みました。夕日には感謝を捧げ、黄金の楽園を望むように全力の願をかけました。それは山や海や平原から現れて来るものであって、ビルディングの合間から出る太陽よりも、ずうっと綺麗で、より一層、燦々煌々とした偉大なるものとして接して来ました。太陽と自然と自分とが一つに解け合って最も親しいものとして拝んで来たのです。
生活に慣れ親しんできたものに対し、ついつい遠ざけてしまうという行為は、太陽への思い入れが薄れてきた事が要因になっているのではないか。況んや自然環境に対したの畏敬の念が希薄になっているというこれは人間の宿業ではないだろうかと憂いざるを得ません。
これは地球生存の将来に関わることで、これを出来る限り延長する為にも、自分の安心の為にも、ここ一番、一人一人自らが脚下照顧せよということなのです。
お釈迦さまは十二月八日に暁の明星を見られて悟りを開かれました。それから見る見る間に太陽は昇り、天は大自然とお釈迦様と共に明け、その脚下を照らしはじめたことでしょう。その時のお釈迦様の御心中は想像に難くないのです。
何ぞ自家の坐牀をなげうちて、みだりに他国の塵境にゆかん
道元禅師
どうして自分本来の坐から離れて、妄りに他所に執り着こうとするのか。元々、仏様から頂いたこの体は悟りの真っ直中にいて、自分以外の何者にもなれるはずがないのに、それに気が付かずに他の何かを求めようとするのか。
2020.10.17 掲載

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