坐禅をしよう

まずは坐禅をして、身も心も快適にしよう。

 この頃、どうも人々の姿勢が悪い。歩いている時も坐っている時も、背中を丸め腰がふにゃふにゃだ。そのせいか、重心が定まっていない。特に若い人たちが目立つのだが、歩く姿などはまるで人類が二足歩行を始めたばかりのようだ。足が地に着かず、不安で、何処に行ったらよかんべなあ、なんていう歩き方だ。食事をしているときの姿などは見られたものではない。背中は丸めている。片手はテーブルの下、おまけにもう一方の腕の肘をテーブルに立てているなんて光景も見受けられる。これでは精神衛生上はもちろん、体にも、つまり栄養吸収の上にも良いことはない。

 食べ方は食べ方で作法ってものがある。ご飯は左、みそ汁は右、その右に漬け物、みそ汁の後ろにはおかず、というふうに並べるのだ。まず先にご飯を頂き、後にみそ汁を頂く。後は、それぞれを均等に頂き、それぞれが同じように減っていくのがよい。しかも、お椀類や小皿などは両手で取り上げて、口元に持ってきて、頂くのだ。全ては大事なのだが、特に申しておきたいことは、なにも残さずに頂く。お米の一粒も残さない。食事の作法というものはどの国にもある人間としてのものなのだ。中国にもある、アラブ諸国にも、ヨーロッパにも、アメリカにもある。方や、テーブルに椅子、ホークにナイフという違いはあっても、基本は皆、 同じだ。ところが今の日本での食卓は、日、中、欧、インド、その他を取り混ぜてというふうに、食事も食べ方もごった返しだ。裕福になったのには文句は言えないが、しかし、そのお陰で肥満や糖尿病、更には心臓病などに浸される人が増えつつあるのは周知の通りだ。生活には信条なく、精神もふにゃふにゃに弱っている。箸もろくに使えないので、ホークでいいだろうと、かって気ままに、あれやこれや大切な食物をついばんでいる。鶏のようだ。食後のテーブルを見ると、うちのタマ(飼い猫)の餌場と同じだ。猫なら可愛いのだが、人間では、あ〜!なさけない。庭の落ち葉なら風流なのだが、庭に紙やプラスチックでは汚れものになってしまう。礼節衰え国滅びる、という訓戒があったと思うが、これが正に今の日本なのだ。

 長々といろいろ愚痴をこぼしてしまったが、それではどうすれば私たちのこの日本、この人々が健全で丈夫になることが出来るだろうか。どうすれば筋金が入るだろうか。これからが本題だ。本題は短いぞ。なぜなら、概念を言うのではなく、この身を修めることについて言うのだからだ。勿論、「自分に節度、他人に親切、親に孝行、先生に礼」などの徳目は大事であることは言うに及ばず、まずは自分自身から、身を修することがもっと大事なのだ。身のこなし、体の姿勢、そして意外と思うだろうが、呼吸が自分を決めていくのだ。「決めていく」というのは、自分の体、心、そして人生、巡りめぐって、私たちの社会を決めていくのだ。さらに申せば生命の本質に決着を付けることだ。ここに決着が付けば、人生は快適、日本は健全になるのだ。

ここで、坐禅について述べます。

:足を組む。右足を左股に置き、次には左足を右股に置く。或いは、左足を右股の上に置くだけでも良い。お尻の下に20センチ位の厚さの坐蒲を敷く。顎を引き、背筋を伸ばす。正座でも良い。

* 坐蒲とは坐禅用の丸い蒲団だが、半分に折った普通の座布団でもよい。

呼吸:1、2回おおきく口を開き呼吸をする。後にゆっくり普通の鼻での呼吸に戻す。呼も吸も下腹を中心にする。

:身も心も一つの如し、と言われるように身が決まれば心も決まる。雑多な想や思いでが続出するが、一切、取り扱わない。ちょうど、沈殿物がかき乱されている状態の時、じーっとしていれば、いつの間にか一粒一粒が沈んでいくのと同じで、沈みきれば、後は澄みきった見通しの良い水になる。よーく自分が見える。自分が見えれば世界が見える。思いが次から次と出て来るが、出て来たら出て来たで、出っぱなし。その思いを追いかけない。放っておく。かかわらない。そのままほっとく。只、ほっとくから、ほとけ(仏)なんていう冗談もあるくらいだ。

:開いて、視線は1m 位前の床に落とす。

:上下の唇と歯は軽く閉じる。舌は上顎にそっと付ける。

手印:組んだ足のかかとの上に掌を上にして置く。右手の人差し指からの4本を下にして、左手の4本をその上に重ね、親指同士を先端で軽く触れ、楕円形を作る。この印を法界定印(ほっかいじょういん)という。

1日10分、1ヶ月で人生は快適になります。

30年続ければ、

これで もう 大丈夫!