我が街、足利を守ろう。

我が街、足利を守ろう

栃木県都市計画の25m拡幅道路(大日西側隣接)に対して反対意見提出

栃木県知事福田昭夫 殿 
                                                                                               平成13年11月20日

 
 平成13年11月6日付、県広報をもって公告された足利佐野都市計画道路の25m変更案拡幅道路(大日西側隣接)に対する意見書

 
         拡幅道路に対して反対意見書(271人(枚))


〈反対意見〉
◎当計画地区は足利氏発祥の古刹である鑁阿寺(大日)一山十二坊の中で、三島院、千手院、竜福院、安養院が江戸時代まで在った場所であります。
 現在、千手院は佛教教育施設である足利幼稚園(創立100年)として変遷しており、幼児教育では長年の信望を集めております。
 他三院は廃寺となって建物は在りませんが、その寺院の遺構や礎石また文化財遺品が埋蔵されております。
 当計画事業が施行されれば、一時的なお体裁程度の遺跡調査はするでしょうが、土木工事によってこの歴史文化遺産は破壊され、そして道路やビルに埋まり、永久に貴重な遺産は日の目を見ないことになります。この貴な歴史文化遺産の消滅は教育面、文化面、芸術面、学術面に甚大な損失を与えることになります。

◎歩行者、交通量共に少々であり、先行投資は時代の趨勢ではありません

◎極一部の建物所有者(一部は大ビル)は所有建物を壊したいが故に計画を推進しているが、多数の住民は反対であります。道路拡幅による住居や商店の立ち退きは無人道極まりないものであります。

◎国、県、市は財政難であり、世情は経済危機であります。当計画は足利 市を一気に衰退させることになるでしょう。

〈結論〉
 当計画強行によって、歴史と文化の町足利市は末代にわたって笑い物になるでしょう。その町に似合った身丈というものがあります。25m道路はあまりにも法外無惨であります。
 同時公告足利市都市計画の大日西土地区画整理事業計画案をも含めて、断固反対を致します。                   
                                                                                                                               以上

町並みを壊す区画整理

 区画整理事業とは詰まる所、宅地造成です。
足利市街地、特に鑁阿寺
(大日様)周辺に於いて、当事業は無益かつ無意味な開発事業です。
宅地や住宅、マンション等の空きが余りに余っている。その上、更な
る人口の減少が確実にやってくる。この情勢のなか、区画整理という宅
地造成は意味の無い無駄な開発です。味気ない新興住宅地ができるだけ
です。
 むしろ、古民家を活かしながら、生活感ある既存の路地や想像力豊かにする曲り路などを壊さずに町づくりをするべきです。鑁阿寺様の大御堂が鎌倉時代建立ということで国宝になっています。周辺は十二坊(鑁阿寺の十二の塔頭寺院)がありました。戸田藩陣屋がありました。それらを鑑みれば、町の活性化の相乗効果をもたらす為にも、尚更、古風であるべきです。それが歴史文化を大事にするということです。
 伝統工法の木造家屋は日本の風土に適ったものです。今風の建物を好むのは個人の自由で結構なことですが、しかし、税金(国や市の補助金)を使ってまでして、半強制的に建替えざるを得ないという状況に住民を追い込むのはいかがなものか。



 消防車進入のために区画整理で道を広げたいというが、進入可能であっても、消防車は炎上中家屋の目前には行きません。ある程度の距離からホースで消火しています。足利市消防署では当地域に関しての消火設備の用意は万端、その訓練は精魂尽くしているとのことです。住民間に於いては各所に消火栓を整え、初期消火の工夫をこらし、そのシステム作りをするに越したことはありません。防災上、この道はどうしても広げる必要性あり、となれば、一カ所、二カ所の線的な拡幅をすれば良いだけです。
 せっかくの慣れそめた路地風情のある町並みを壊すことはありません。古いものを大事にすることは、お年寄りを大事にすることにつながります。経済効率一辺倒ではなく、歩いて楽しい、ゆっくりとした歴史文化の醸し出す町にしたいものす。

                      まちづくりを考える会
                        足利市家富町2523 高福寺内
                      代表 佐川利夫 事務局 武井全補

元来の名称である「法界寺址」への名称変更要望

〈法界寺址について〉

 足利源氏2代目 義兼公(足利尊氏の6代前)建立の法界寺(現在はなく、この地には樺崎八幡宮社殿があるのみ)を、足利市は「樺崎寺」という間違った名称で国に遺跡文化財登録申請をし、平成13年1月には間違った名称である樺崎寺という名称で登録されてしまった。足利市として、仏教会として恥じ入る次第です。
 
 足利源氏2代目 義兼(足利尊氏の6代前)は出家をして高野山の宝憧院に居住す。法華坊鑁阿と号し真言密教を行学す。(「高野山御影文書」より)
 
 帰郷して足利市樺崎町に伊豆、走湯の般若寺の僧、理真阿じゃ梨を住職に迎え法界寺を建立する。高野山に準じて、奥院を鑁阿寺大御堂から北東4キロメータの樺崎町に建立し、下御堂法界寺と名づける。(「鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第」より)
 
 これは妻時子(源頼朝の妻政子の妹)が懐妊したとき(文治4年1188年)、安産祈祷の為であった。(「鑁阿寺古縁起」より)

 
 
 鑁阿寺は足利義兼公により開創された真言宗の古刹であり、本尊は大日如来であります。大日如来には「鑁」で表す金剛界と「阿」で表す胎蔵界の二種があります。
 金剛界大日如来は宇宙全体の実相とはたらきを仏格化した仏で、その行法の印相は智拳印を結び、智慧徳相を堅固あらしめる智法身仏であります。
 胎蔵界大日如来は生命の根本、宇宙の心髄を仏格化した仏で、印相は法界定印を結び、理徳を養い慈悲を顕現せしむる理法身仏であります。智法身の「法」、理法身の「法」、法界定印の「法界」という字は教義上、頻繁に使われる字であります。
 鑁阿寺の本堂を大日堂また大御堂とも呼んでいます。真言密教を学び大日如来に感化された義兼公は大御堂を壇上とし中心堂宇に位置づけ、樺崎の地に奥院を建立されました。その奥院を檀上である大御堂に対照して下御堂と呼び、真言宗の教義・信仰上から法界寺と命名されたことは充分に推察されます。
 義兼公の嫡子義氏公も同様に「法」の字を付けた法楽寺を創建されています。
 以上の理由で、前澤輝政氏が平成十二年十一月十五日足利市前市長へ、また平成十四年二月十二日足利市教育委員長へ提出された両要望の趣旨に賛同すると共に、奥院の名称を樺崎寺址から法界寺址への名称変更を要望するものであります。

 



足利市教育委員長

                  要望書

本書の要旨

 足利義兼公が創建した鑁阿寺の「奥院」につき、跡遺名は「樺崎寺跡」でなく「法界寺跡」に是非改められるよう要望いたします。
                           平成14年2月12日
                                前澤 輝政


一、「足利氏源義兼」 (以下、足利義兼。久壽元、1154〜1199年(正治元))は文冶2年(1186年)には「入道し鑁阿と号し、高野山に住み法華坊鑁阿と号す(『高野春秋編年輯録』)また「法花坊鑁阿上人、高野山宝憧院に居住す」(『高野山金剛峯寺御影堂文書』)ともある。

二、そして「凡そ本願上人(義兼 鑁阿)の素意は偏に高野山に擬え、当寺(鑁阿寺)を以って壇上と為し、樺崎をもって奥院に准らう」(『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』)ー以下、『仏事次第』という)とある。

三、上記のことから、出家入道し法華坊鑁阿と号した足利義兼は、樺崎の地の「奥
院」に当たる一山に「下御堂号法界寺」を建立した。

四、「法界寺なる下御堂」建立ののち、「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元録縁起』では、当初義兼が一堂を建てたところという)、「一切経蔵」、「多宝塔」、「竹内地蔵堂」等の建立(『仏事次第』)が知られるが、「下御堂法界寺」は一山を代表する中心堂宇として、「壇上」である鑁阿寺の中心たる「大御堂」に対する「下御堂」であり、一山の寺名のごときものであったと解せられる。

五、なお、「樺崎山崖」に営んだという一字「赤御堂」(『樺崎八幡社所蔵元禄縁起』)を、足利市教育委員会は「上御堂と見立て、それより東側の低地に立地する故に下御堂(法界寺、宝憧院)と称したと考えられる」とするが、上御堂なる堂名は上記の文書他関係文書に見当たらず、「下御堂」とは「赤御堂」より低地にある故でなく、 「壇上」(鑁阿寺大御堂)に対する「下御堂」の意と解される。

六、足利義兼は真言密教の本山高野山金剛峯寺に住み「法華坊鑁阿」と号したのであり、真言密教の主尊たる大日如来、胎蔵界の印相が「法界定印」であれば、鑁阿上人として(鑁は金剛界、阿は胎蔵界の意)としては、そこが一山の中心堂宇であるからこそ「法界」と冠したもので、それは真言密教を奉じたかれ鑁阿上人にふさわしい信仰上の寺名であったと推察される。
 因みにー
 鑁阿上人、義兼の祖父義国の菩提寺は「宝憧寺」であり、父義康は「鑁歳寺」である。ー宝憧寺は「高野山宝憧院」、 「宝憧院下御堂、法界寺」、鑁歳寺は「鑁阿寺」なと密教信仰上の寺名が想われる。そして義兼の子息義氏の菩提寺が「法楽寺」であれば、「法界寺」の寺名がいかにも相応しく思われるのである。

七、法界寺の創建は文治5年(1189年)乃至 建久初年(1190か1191年)頃の鎌倉初期とみられ、建久4年(1193年)には「下御堂法界寺」(『仏事次第』)とあり、正安元年(1299年)に法界寺が焼失後、法印房源助(左馬頭法印、理真上人八代)が「宝憧(幢)院下御堂、法界寺代」(『仏事次第』とあり、およそ鎌倉時代は「法界寺」の寺名が用いられていたことが知られる。そして「樺崎寺」名は文和3年(1354年)に「樺崎寺別当」(『足利尊氏御教書』)、貞和2年(1363年)に「樺崎、鑁阿両寺別当」(『足利基氏 補任状』)等、およそ南北朝〜室町時代に知られる。
 しかも応永28年(1421年)、四代鎌倉公方足利持氏が父満兼(三代)のための「勝光院殿御追善十三回并御廟供養」(『足利満兼十三回忌曼荼羅供養供職衆請定』)は「椛崎法界寺道場」とあり、室町時代にも足利源氏の法要等の正式儀式には「樺崎寺」でなく「法界寺」名が用いられていることが知られる。

八、思うに「樺崎寺」とは「樺崎」の地に所在する故、その地名を単に冠したのに相違なく、仏教教義上の寺名でなく俗称であり通称であった。ーそれはかの大和の法隆寺が斑鳩の地にある故に斑鳩寺(鵤寺 伊可留我寺)、法興寺が飛鳥にあるが故に飛鳥寺等と俗称されているのと同じである。
九、また奥州平泉の毛越寺は、「陸奥国平泉円隆寺号毛越寺」(『吾妻鏡胱漏之巻、嘉禄2年11月8日条』)とありー足利の鑁阿寺の「奥院」が「下御堂号法界寺」であれば、彼は「毛越寺」、我は「法界寺」とこそ称されたのであろう。
十、天保15年(1844年)の楽堂(毛ノ国足利北在吐月峯向合主人)著『四十九院地
蔵尊順道詣』の文中に「下御堂法界寺」の寺名が記載されており、江戸時代後期でも「法界寺」名が存在し、用いられていたことが知られる。

十一、『足利市史』上巻(足利市、昭和3年)にはー「下御堂法界寺は鎌倉時代より室町幕府時代の中世に至まで隆盛を致ししが、永禄、天正の頃より京都将軍家及ぴ関東管領家の衰微と共に其の運命を共にし、織、豊時代及ぴ江戸時代を経て、明治の初年に至り、僅かに薬師堂一宇(八幡官本社より東南約四町の辺)を存せしが、之も今は全く荒廃して徒に麦秀を嘆つのみとなれば里人其の辺を「ホッケ寺」と呼びしときくも、今はそれを知る者なし」とある。ーこの「ホッケ寺」は法華寺であり、「ホッカイ寺」の転訛に相違なく「ホッカイ寺」は「法界寺」である。
 以上のごとく、鎌倉時代初期の創建以来、法界寺の最も盛時たる鎌倉時代は「奥院」「下御堂号法界寺」の名であり、真言密教を奉じた開基たる足利義兼公の信仰からも「法界寺」と称されていたのである。
 まことに「法界寺」の寺名は開基足利義兼、鑁阿上人(開山は真言密教僧、理真上人『仏事次第』)の信心の表現であり、創建以来のものであれぱ、これが最も尊重されることが至当であり、その遺跡名は「法界寺跡」が正当である。
 したがって、遺跡名は「樺崎寺跡」ではなく「法界寺跡」とすべきである。

                                   以上
法界寺址を是とする同意書

 前澤輝政氏が平成12年11月15日足利市前市長に提出された要望書と併せ、此の度の要望の趣旨に、足利義兼公 嫡孫 坂本夫妻と足利仏教寺院真言宗・天台宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗、各宗二十四の有志寺院住職は同意をしています。
                           平成14年2月12日

歴史都市構想推進会議

 歴史学 考古学博士の前澤輝政先生が生涯をかけ提唱されていた構想です	

 足利市は歴史と文化のある町です。歴史都市構想に基づくまちづくりをしなければなりません。日本全国にも提言できることです。
 昨今の日本人の精神構造を思うとき、憂慮に耐え難いものがあります。戦後の急速な経済発展によって、物質的生活水準は裕福になったが、反面、因果応報と言われるように、その弊害として精神面に於いて、社会不安の鬱積や懊悩が現象化して来たようであります。換言すれば、経済効率を過度に優先するあまり、人心を置き去りにして来た結果のトラウマ的後遺症が表出して来たことが伺えられるのであります。薬物乱用、売春行為に陥る少年少女の増加と低年齢化などには暗雲迫る思いがあります。
 現代病とも言えるこの現象の原因には、多種ある中で、古き良き日本風土・歴史・文化・自然を蔑ろにする急速な都市化が大きな要因と考えられるのであります。
 かつて人と自然が共生した里山は子供を養育するが如く歳月をかけ手入れをされていたということであります。同様に、町の造りも長い歳月に裏打ちされた歴史があり、そこに伝統・文化が息づいているからこそ人は安住できるのであります。良く生きるとは、古里の歴史を生活の中に連続させることであり、先祖の魂を時に努めて感得しながらそれを心の糧にすることなのであります。
 足利は幸いに歴史遺産の豊富な町であります。この特点を活かし、教育・文化の立脚点から我が足利を、伝統が薫習している町、歴史が息づいている町、文化の香る町、自然と共生する町にしていかなくてはならないと勘案するものであります。
 以上の理由で歴史都市構想推進会議を早急に設置しなければいけません。
 


足利仏教会より足利市へ
足利市市長 吉 谷 宗 夫 殿
       
        「歴史都市宣言」推進のための組織設置の要望
 
 平成12年6月20日の足利市議会における「歴史都市宣言」を踏まえ、足利仏教会として、以下の要望を致します。
 
 1960年代以降の高度成長経済の結果、日本は、世界第二位の経済大国となりましたが、その反面、水俣病などの深刻な公害問題の発生だけではなく、大都市への人口集中によって、地方の過疎化が急激に進みました。
 さらに、1980年代の、バブル経済のさなか、悪質な土地の買いあさり、地上げなどが起こり、伝統的な地域環境が大きく揺さぶられました。しかもバブル崩壊によって、地上げされたものの利用されない空き地が各地に見いだされ、地方都市中心部の空洞化が指摘されてきました。
 さらに、地方都市では、少子化と高齢化とが同時進行しております。中心部の商店街の空洞化が進み、地方都市の活気は失われつつあります。
 足利市も例外ではありません。高齢化、中心部の空洞化、少子化による小学校の合併などが生じてきました。
 この現況に対して行政の側から、十分な対応がなされているとは言えません。今まで行われてきた活性化の手法は、太平記館や美術館などのいわゆる「ハコもの」を作るという旧来型のものにすぎませんでした。近年、構造改革が叫ばれる中、公共事業中心の行政が厳しく批判されるのは、「ハコもの」や道路造成中心の行政は、しょせん、建物や道路を作るだけで、地域の人と人とのつながりを回復する機運を生み出せなかったからなのです。
 今必要なことは、新しい建物や道路を作り出すことではありません。長年の間つちかわれてきた人々のつながりや町並みのあり方を見直すことではないでしょうか。

 路地によって象徴される日本の伝統的な町並みは、欧米型の都市とは景観が異なります。1960年代以降の高度成長下では、伝統的な町並みが破壊され、どこに行っても同じような都市景観が人工的に作り出されてきました。日本が世界に誇る古都京都ですら、醜悪な高層建築群によって、都市景観に大きな歪みを生み出し、世界の心ある人々から批判を浴びております。
 足利市も、東日本では、鎌倉と並ぶ古い歴史を誇る町です。市内各所に栃木県下一を誇る391件の歴史遺産(国指定文化財 三五、県指定文化財 80、市指定文化財 276)、並びに県下最多の古墳群を有しているばかりではありません。中心部には渡良瀬川が流れ、背後には、両崖山、行道山、大岩山など関東各地からハイキング客が訪れる、美しい山並みがひろがる自然環境にも恵まれています。
 今必要なことは、先祖から継承してきた、こうした歴史遺産(文化財や自然環境、町並み)を再評価することではないでしょうか。
 たとえば、現在進行しつつある大日(鑁阿寺)周辺の都市開発計画も全面的に見直すべきではないでしょうか。
 この地域は鑁阿寺一山十二坊の金剛乗院(三島院)、千手院(現在は、創立百年を越える足利幼稚園となっております)、竜福院、安養院などの寺院や足利戸田藩陣屋が存在した地域です。この跡地には、まだ未発掘のたくさんの遺跡・遺構、文化財などが埋蔵されている可能性があります。また古い伝統的な路地文化が息づいている貴重な地域でもあります。
 この町並みは、今後、足利市の貴重な歴史遺産となるものであり、区画整理や道路拡幅によって破壊されるべきものではありません。子孫に残すべき路地文化を破壊することは、賢明な方法ではありません。開発計画は、全面的に見直すべきものと考えます。

 以上の展望にもとづき、足利仏教会と致しましては、大日〈鑁阿寺)周辺の都市開発計画を全面的に見直すことを要望するとともに、足利市を歴史遺産、並びに美しい自然環境と伝統的な町並みを基盤にした「歴史都市」として再興するべく、「歴史都市宣言」推進のための組織を早急に設置することを要望するものであります。
                        平成14年6月7日 足利仏教会

歴史風情ある町並みの区画整理に反対

 名刹鑁阿寺(大日)西地域は江戸時代まで、鑁阿寺塔頭の十二坊や足利戸田藩の陣屋があった地域である。明治時代からは庶民を中心にして親しみある路地の町並みが形成されて来た。ここは歴史の趣を感じさせる古風な大変貴重な町並みである。ところが、無謀にも区画整理事業がすすんでいる。足利市は平成12年6月の議会で歴史都市宣言をし歴史と文化の町を標榜しているが、道路拡幅や新敷設、はたまた伝統工法の民家や史跡を廃棄してしまえば、歴史も文化もあったものではない。




 区画整理の弊害を挙げてみる。
 
〈歴史と文化の面〉
 区画整理等で開発された町を観て思うことだが、それはアメリカ西部開拓での町造成の光景が思い浮ばれる。まるで仮設の造作物やテーマパークを思わせる。荒野の開拓では必要だろうけれども、歴史・文化・伝統の豊富な日本の町や村では許されるものではない。前沢輝政博士は、文化伝統・歴史遺産が現代に息づいているからこそ我々はそこに安住できるのである、と訴えている。
 
〈環境面〉
 道路拡幅や宅地の削減・区割りにともなって、土や庭園・樹木の減少。町散策の風情を無くす。
 
〈家計面〉
 宅地の減歩や精算金の支出がある。分割・換地のいざこざで住民の多数が転出。商店への客足の減少。曳家によって家は傷み、新築を決意する多くは借金を強いられる。事業完了後、固定資産税等の値上げは必然。
 
〈教育面〉
 使用可能なものを無闇に廃棄するのは、倹約精神に反する。生活そのものの破壊行為が想起される。ブルドーザで方々壊している状況はものを大切にする思いやりや伝統への造詣を奪うことになる。古いものを粗末にするその行為はそのまま老人を排除することに繋がりかねない。使い捨て消費経済の病巣が子供の精神の奥底に繁殖していく。
 



〈心と体の面〉
 住宅の引っ越しや長年にわたる工事の被害等で、心・体ともに多大な労力を使わなくてはいけない。深刻なことでは、町並みが急変することで原風景が喪失し空虚感に襲われる。これによってアイデンティティの衰弱を招き、子供は脅迫感を内蔵し、老人は悲壮感を味わうという心の歪みが生ずるだろう。作家の高山文彦氏のお祖母さんは、開発で近隣の景色が一変すると同時に痴呆の症状があらわれた、と語っている。司馬遼太郎氏は開発の害として「日本人への遺言」という対談で、土地をいたぶったという意味での倫理的な意味で決算をしておかないと、堅牢な日本を築くのは困難で次の時代は来ない、と嘆いていた。
 
 住民は区画整理や町開発に対し嫌悪感をいだきながらも、市当局職員の巧みな住民操作で、事業計画を認めざるを得ない格好になるようだ。それを検証すると、次のようになると思う。
 民主主義が未熟であり、まともな会議ができない。会合はお体裁で本音と建前の誤差が甚だ大きい。ことは補助金獲得から始まるという本末転倒行為。道路行政がまかり通っている。歴史・文化・環境に対しての認識が貧弱で、使い捨て消費経済システムに洗脳されている。規格品やインスタント生活が浸透し、堅実なものを修理工夫して使いこなすという生活信念がなくなった。補償金をあてにする住民の主体性の無さ、自助努力の欠落に陥っている、ということになるだろうか。 
 


 
 とにかく、ここ30年間、日本国中、無謀な区画整理や都市開発によって、何処に行っても無味乾燥な町並みができている。日本人の魂までも味気なくなってしまった。このように町を切り刻むことはいい加減に止めたらどうだろうか。

足利在住の皆さん、反対の署名をしましょう。

 計画案縦覧の以前、平成12年4月、6月、平成13年6月、計3回、住民の半数の反対署名を添えて足利市長に陳情をしています。以下が反対趣意書の内容です。

○区画整理法という法律で区域全体に網をかけて、反対住民の土地までも強制的に、しかも 補償なしで削られ、または清算金を徴収される。(私有財産権や生活権を犯しいている)

○終の棲家また商店としている住民にとっては、土地が削られ、家が動かされることがどれ 程、迷惑で労力の必要なことか。(わずかな一坪二坪の土地を植木や盆栽で心から楽しんでいる人もいる。生存権が大事であって、土地価格の問題ではない)。

○安心して歩けるという路地がなくなる。

○無機質な官庁街のようになる。

○車の通過が増えて、騒音や排ガスが増える。通過道路の区域となる。

○歴史的な後世に残したいものや風情の暖かさがなくなる。(住み慣れたものが失くなることにより、精神的な痛手などの見えないマイナス面が多大)

○道路拡張にともなって、建物の高層化が進んだり、宅地が狭められることにより軒先と軒先がより接近し日照や通風が悪くなる。

○少ない樹木がより少なくなる。

○固定資産税が上がることにより、地代や家賃が上がる。その結果、家計に経済的な支障が懸念される。

○古いものを大切にしない、使い捨て消費経済の病巣で老人や弱者の排除が想起される。

○国や市が赤字財政なので、将来にわたって増税という「つけ」が回ってくる。

○総理府・労働省の統計では2007年から人口が減り始め、2100年には現人口の半数になる、という長期展望を視野に入れず、区画整理はあまりにも無謀で短絡的です。

 以上の理由で家富町、雪輪町、巴町の区画整理や道路拡張には反対します。
 

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〈まちづくりへの提案〉

○歴史と風情のある、歩いて楽しい路地のまちづくり
○個人商店を活気づけるまちづくり
○空き家・空き店舗の対策を考える
○防災防犯には消火栓や外灯などを各所に設ける(小型の消防車もある)
○路地でも新築できるような方策を考える
○植樹を奨励する
○老人介護、在宅ケアなどのシステムを導入する
○老人と若者が共存するまちづくり
○道路拡張が必須で要望が多大であれば、その道路に面している住民全員の納得と充分な補 償でその道路を最小限の拡張を行う
○すでに実働しているまちづくり会(奥の院研究会、陣屋通り会、陣屋通り研究会など)と協力し合う
                           まちづくりを考える会 
 
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区画整理というものは、
*無駄金使いの乱開発
*殺風景な人工物
*不健康な新建材
*国をあげての建設という破壊行為(市や自治会が音頭とりでは始末に悪い)
*反対でも賛成させられる虐めの構造
*いやでも出される情け知らず
*自然も壊す、歴史も壊す、文化も壊す非情の近代化
*車は通るが、人は歩けず
*「あそこの木は何処いった」と訊く子供の遊び心を引っこ抜く
*隠れんぼも、ボール投げも出来ない住宅地
*街並みをいっきに壊されてはたまらない。年寄りは病気になるだろう。まさに人災だ。
 
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 足利市のばん阿寺の(大日様とも云う)西側に位置する、家富町3丁目と雪輪町と巴町は江戸時代まで戸田藩の陣屋があった地域です。そのゆかりの神社や井戸があったり、露地があったりということで、歩いて楽しくまことに趣があり、住み良い町並みです。優に400世帯はあるでしょうか。皆んな善人で、まあ、なんとか暮らしています。
 ところが、市役所と3〜4人の自治会役員が結託して、この住み良い環境をいっきに整理しようとしている。つまり区画整理を企てている。(ばん阿寺の東側区域は多くの反対者がいたにもかかわらず区画整理をしてしまった)。なんと暴力的なことか。かつての戦争では空爆もなく、せっかく築き上げた、慣れそめた、ほんわかと歴史が感じられる町並みをいっきに無くしてしまおうとする。これを一体、区画整理推進者はどう思っているのか。線を引いたように道を広げ、味っ気のない規格品の人工造作物の町になるのは目に見えている。
 現代社会はただでさえ、人とのつながりがギスギスしているのに、区画整理などををして街を香港フラワーのようにしてしまったら、なおさらギスギスになっていく。精神衛生上に良くない。化学薬品をふんだんに使った新建材が蔓延して健康に悪い。自然というものをないがしろにするので、より自然である子供の情緒や創造性や生命力にブレーキをかけてしまう。
 養老孟司氏(北里大学教授、解剖学)曰わく、「アメリカの近代化を真似て、近代化都市化の美名のもとで日本の町や田舎が無くなっている。子供が変だ。キレる、先生を刺す、同級生を刺す。ともかく学校が荒れる。それもそのはず、暗黙の権利として子供が遊んでいた場所が、見る見る削られていくのだから、子供がおかしくなるのも当たり前。子供達が犠牲になっている。それに抗議できない子供達が妙に反乱している。つまり、キレるのだ。子供の遊び場が無くなるという主張が一時あったが、今はもはや無い。今は土地の有効利用だ活性化だと言って、大人の権利打算が当然になってしまった。この傾向が滔々と日本中で進んだ。子供は自然が好きなのだ。人間社会は自然の背景の上に成り立つ。日本の文化や伝統は、日本の自然と調和を保って生じてきた。田圃、里山、雑木林に代表される自然への「手入れ」の感覚は、同時に子育ての感覚だった。子育ては風土という外部の自然への対応と一致させること、それが我々の先祖が作り上げてきた理想像だった。それをひたすら壊したのは現代の我々以外にない」と。(要約)
 汚れているのが良いとは言わないが、「水清ければ魚住まず」なのだ。日本の国土は欧米諸国と違って、高温多湿で土壌が豊かであり、雑草は生い茂り、烏や毛虫、蜘蛛や蚊、蟻やゴキブリなどなどが、あげたら切りがないが、繁盛している。これらを排除して、きれいな花や小鳥だけにしようなんてことは土台、無理な相談だ。雑多な他の生命があってはじめて、そこに人間も住めるのだ。日本という国の町々は田舎っぽいのでよいのだ。日本は他の国々から見ても古くて田舎っぽい良いものが一杯ある。それを解らず、現代人は思い上がりで、都市化を進めている。一見、きれいきれいに宅地区画を整理していけば良いのだと錯覚を起こしている。それは、経済効果だ、土地有効利用だ、なんていう拝金的な役所的な論理にしかすぎない。そんなことをしていたら他の動植物もろともに人間の生命力は衰えていく。これを自業自得というのだ、大腸内の寄生虫類をやつけたら、アレルギーや喘息もちが増えたと言われているように。
 ここ20〜30年の日本は建設中心の公共投資によって、都市開発や区画整理が行われ多くの由緒ある街並みが壊されてきた。経済効果優先の施策によって、日本人の資質までもが壊されてきた。日本国は赤字財政にもかかわらず、銀行の不良債権処理に巨額な我々の税金を使い込んでいるのだから、区画整理などへの財源があるはずがない。もう、いい加減にしろ! 経済効果などと言って、土建行政がまかり通ってきたが、もうそろそろいいのではないか。今は不景気だから殊更に経済効果を狙いたいのだろうが、教育、福祉、自然環境などへの公共投資でも十分にその誘因になるはずだ。
 箱ものを造っても、中身が空っぽ(あっても欲得だけ)ではどうしようもない。 
 これからの日本の建て直しは、中身である教育、福祉、自然環境の充実なのだ。
「国家の計は人にあり」「礼節衰え、国滅びる」ということが解らないのか!
 とにかく、街並みをいっきに整理するなんてことは、とんでもないことだ。
 区画整理は駄目だ!足利の街並みを守ろう!


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足利市 ばん阿寺西地域のまちづくりを考える  
                          平成12年5月17日

 少年たちの耐え難い事件が頻繁に起こっている。最近では「派手なことをして世間にアピールしたかった」といって、バスジャックをした挙げ句に人を殺傷してしまうという事件があった。こういう挙動は、あまりにも社会がシステム管理され、それを内心では嫌っているが故に本音と建前を巧みに使い分けその結果、本末転倒のことをしている世間大人への反逆ではないだろうか。それとも、本末転倒している大人を無意識に見習っているのか。とにかく社会構造ごと人間の行為が息詰まりの自業自得に陥っているようだ。その閉塞感からの脱出には、世間に出て行ってエネルギーを善行に向ければ良いのだが、逆に一人の人間を殺してしまうという人間の病的な行動を引き起こしてしまった。
 いっぽう、やれ開発だ、やれ基盤整備だと唱えながら、多くの税金を使い、この種の経済活動が長い間に行われてきた。ところが、いつの間にか「町内全域を区画整理して事業を成し遂げたい」という事業(仕事)の為の事業となり、つまり予算取りの為の事業となり、本当に大事な一人の生存環境や生活文化をないがしろにしてしまうという現象が起きている。
 考古学者の前澤輝政氏は「戦後の国土再建と経済復興のなかで経済優先の世相は生活様式を一変させ、伝統的な日本文化の良き物までも相当に喪失した。生産規模の飛躍的拡大は国民の物的生活を豊かにした反面、地域開発を促し、自然的・歴史的環境を大きく破壊し、公害を増大し、物質優先は心的なものを軽視し、かけがえのない自然や先祖伝来の文化遺産への思いは薄くなり、まさに都市化は自然環境、文化財やそれを含む歴史的風土をむしばんできた。空気や水と同じく、生きていく上でなくてはならない心安らぐ歴史的環境の破壊・湮滅はいまや人類生存上の危機の一環ともなってきた」と論じている。
 まさに家富町・雪輪町・巴町の界隈は歴史的建物のばん阿寺の十二坊・足利藩の陣屋がかつて在った場所である。今はその遺跡の一部としての、陣屋の屋敷稲荷と天満宮、藩主の井戸、逆藤天神、また長尾氏ゆかりの五霊宮(ごんごろ様)等が在るが、町民はそれらを庶民のものとして大事に守りながら今日に至っている。活気づいた大正時代のものでは、のこぎり屋根の工場(小島家)、いくつかの土蔵、多くの土壁の家があり、それらは今はトタン板や新建材もので覆われているが、それを取り除いて修復すれば往時の息吹が見事に甦るであろう。往時は人と人とが接近した生活現場での身すぎ世すぎであった。そこで商売をし、文化が醸成され、歴史がつくられ、お互いが寄り添い親しんで、そして自ずからの町並みが出来上がっていった。そこには路地の町並みが、ケア地域空間として自然と機能していた。まさにこのことが路地文化といわれる所以であり、この地域の路地が江戸・明治・大正・昭和と続いてきた貴重な文化遺産であると認識すべきであろう。   
 こういう歴史的、文化的な空間をないがしろにすることが、いかに精神構造までをも衰弱させることか。ましてや、道を広げることで住居を無理やり移転させられるなんてことは、道義的意味に於いても許されるものではない。司馬遼太郎氏は田中直毅氏との対談でこう述べている「次の時代なんか、もう来ないという感じが、僕なんかにはあるな。ここまで闇をつくってしまったら、日本列島という地面の上で人は住んでいくでしょうけれども、堅牢な社会を築くという意味では難しい。ここまでブヨついて緩んでしまったら、取り返しがつかない。少なくとも土地をいたぶったという意味での倫理的な意味で決算をしておかないと、次の時代は来ない」と。礼節を重んじ、道義に厚い、しかも勤勉なかつての日本人は、故郷照心ぜんとして神仏を拝む生活はあっても、土地神話(土地をお金に換算して土地を転がす)などはなかった。司馬遼太郎氏が述べる「土地をいたぶる」なんてことは毛頭なかった。
 十二坊の跡地を発掘調査すれば、その礎石などが出てくるだろう。そこに十二坊塔を復元するなんてことは夢の夢で大変なことで、これはできない相談としても、しかし今現在の慣れ親しんだ、しっとりとした町並みを残しながらの「まちづくり」はして頂きたいものと考えている。                                         
 
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大日(ばん阿寺)西地区の区画整理に関するアンケート調査と、隣組懇談会に疑問あり

「まちづくりを考える会」では4月27日と6月30日に足利市長に対して、区画整理反対の陳情に行っています。

その際の区画整理反対署名捺印者は、
 家富町三丁目 154名(9/27現在 166名)
 雪輪町  122名(9/27現在 173名)
 他町内 1228名(9/27現在 1400名)

 家富町三丁目の166名、雪輪町の173名は町内人口の半数以上になります。
 住民の半数以上の人達が区画整理を嫌がって反対署名をしているにも拘わらず、今もって市は区画整理事業を進めようとしています。
 市当局主催の隣組懇談会やアンケート調査というものがそれに当たり、市と区画整理推進者は166名と173名の地元住民の意見をまったく無視しているということになります。
 これは地域共同体の欠陥と言わざるを得ません。
 区画整理は極一部の人達だけが利益を受ける事業です。土地の減歩や清算金(負担金)の徴収というもので、住民全員がなんらかの財産の提供を強いられます。払えなければ、借金をするか(市が貸し先を紹介するらしいが)どこかに移転するしかありません。町内人口は半減するでしょう。
 防災のまちづくりというが、現在、家三、雪輪、巴町は消火栓放水能力が充分だという消防団との談話がある。(素人が使える消火栓は見あたらないが)。道路を広げれば宅地が狭められることによって、住宅が接近するので(例、ばん阿寺東地区)かえって防災上都合が悪い。
 区画整理では、町内全部の宅地を代替地に登記変えすることによって、利害が複雑に絡み合い町内づきあいが壊れるでしょう。区画整理に賛成で自分の土地家屋を売却して他へ移転する人は、町内に留まる人達の為をもお考え下さい。
 区画整理に断固反対し、区画整理ではない修繕型の、街並み保存型のまちづくりをしましょう。
平成12年9月27日
まちづくりを考える会
 

区画整理事業は、住民の犠牲を強いられます
〈無補償で拠出する〉
 区画整理法という法律で区域全体に網をかけて、反対住民の土地まで強制的に無補償で土地面積の2〜3割を削る減歩というものが有ります。
 〈清算金を徴収される〉
 区画の都合上、削る必要のない土地や過小宅地は減歩をしないが、その代わりに地権者に対して負担金を課します。
 〈恐い仕組みの換地処分法がある〉
 代替地とは、換地処分の特殊な法的操作にて行政の権限で、区域全ての土地の権利書を一斉に書き替えて、土地の所有者に新しい権利書が一方的に送られて来ます。つまり、従前の土地と引き換えに、配置や面積が変わる換地が与えられます。
 〈住民の土地を食い物にする事業だ〉
 無償で獲得する土地でもって道路拡幅や必要ない公共施設を造ったり、また保留地を生み出します。保留地は換地用としてではなく、市のものとして売却して事業の一部に充てる。まさに区画整理とは住民を食い物にする事業です。
 〈一部の人に踊らされて町並みを壊すのか〉
 「路地が多く狭くて危険だ、だから区画整理だ」と言うのは論理に飛躍があります。不備があると言うのなら、その箇所の環境を修繕整備すればよいのではないか。地元住民にはそういう環境整備の要望はあっても、断じて区画整理ではありません。すなわち土地の交換分合事業を住民全員が望んでいる訳ではなく、ごく一部の人だけが望んでいるのです。折角の歴史ある町並みを壊してしまったら、市街地活性化どころか、無道徳人造人間化になってしまいます。  
 〈経済的余裕も無し、土地の価格は最安値〉
 社員のリストラ、会社の倒産、脅威の失業も起こりうる時勢です。賃金カット収入減は当たり前、年金制度は怪しくなる、介護保険料は上乗せされるという様に、先行きに不安を抱き、家計が苦しい現状です。
 〈税金の無駄使いをするな〉
 国も市も財政危機に直面しています。こんな状況で行政が貴重な税金を費やし、住民に喜ばれもしない区画整理を何故する必要が有るのか。

 区画整理反対の署名が集まっています
 家富町三 167名
雪輪町 178名
 他町内 1423名

                          平成12年10月30日
                           まちづくりを考える会