玄應和尚の話


霊雲と桃花

 霊雲和尚は諸国行脚に出た。山の麓でひと休みをした。時は春。遥かに人里を見渡すと、そこは一面に桃花が盛りに咲き映えていた。一望すると、たちまちに悟りを開いた。そこで、偈(詩)をつくって師匠の山和尚に呈示した。

「三十年もの間、諸老師を尋ね歩いた。秋には落葉を踏み、春には新芽に触れてきた。数えきれない程だ。今ここに来て、一面の桃花を見た。もう直截に何も疑うものがなくなった。」

 不疑、疑わない、というのは何だろうか。我々は、素晴らしい眺めだと思うと同時に、ついつい「この花畑の手入れはさぞ大変だろうな」「桃が熟したら旨いだろうな」などの思いの色眼鏡を通して見てしまう。たとえ、素晴らしいという思いだけであっても、桃花を「向うにあるもの」、見ている自分とは別物として見ている。そうではなく、この一面の桃花は自分とぶっ続きだと直感した。自分が桃花を見たのか、桃花が自分を見たのか、自分が桃花そのものの世界になった。雑貨が入る余地はない。そこで、もう何も疑うことはない。

 普段の生活で、なんの音もしていない、という状況がない。冷蔵庫の音とか、車のはしる音とか、何かの音がいつでもしている。また、暗闇という場所がない。外は外で外灯が明るく、家は家でいつでも何かの明かりがついている。こういう環境では人間はたとえ楽しい気分であっても心が右往左往しているのであれば、そこには疑心暗鬼が潜んで決定的な安らぎはない。

 夜遅く、人里離れた山中で満天の星を眺めた。何も聞こえない。真っ暗闇で何も見えない。見えるのは満天の星だけ。そこでは星全部が自分のもの、自分が星に吸い込まれているようだ。ただただ魅了させられるだけだ。何者でもない自分をただただ頷いてしまう、火裏の氷だ。多くの人がこういう経験をしていると思う。万象之中独露身ばんしょうしちゅうどくろしんと古人は言う。

 瑩山禅師は法華経の「父母所生の眼をもって悉く三千界を見る」という言葉によって悟りの機縁を得た。父母から頂いたこの眼と、三千界の桃花と、見るという行為のこの三つは一つだということ。修行を積み九年後、師匠の義介禅師に問い詰められ、「うては茶を喫し、はんに逢うては飯を喫す」と呈示している。行為動作には目的があり、何々の為、ということになるが、その動作の瞬間は、ただ只、そのことだけ。ただお茶を喫す、ただご飯を頂く、そのことを日常茶飯事の悟りという。

 計算高い世間、騒がしい人生ではあるが、何々の為という為ではない自然を味わい、損得勘定のない、対象比較しない生活を時々はしたいものです。

春風にほころびにけり桃の花

   枝葉にのこる うたがひもなし

道元禅師

2021.7.29 掲載