只管打坐

只管打坐しかんたざ

 曹洞宗の開祖である道元禅師は永平寺(福井県)をお開きになられ、お釈迦様から代々伝授されてきた坐禅の妙術を仏道の基本に据えられました。その四代目が瑩山けいざん禅師で、總持寺そうじじ(横浜市、明治44年までは石川県)をお開きになられ、その教えを全国各地に弘められました。そういう由縁で永平寺と總持寺を二大本山として仰ぎ、仏道の始祖であるお釈迦様を一仏いちぶつ、道元禅師と瑩山禅師を両祖(一仏両祖いちぶつりょうそ)とし崇拝しているということです。

 坐禅の妙術とは只管打坐、ただひたすら坐に打ち込むということです。足を組み、背筋を伸ばし、静かにゆっくりと呼吸をし、湧き出る思いにとらわれず、追いかけ回さず、放ってしまう。そうすることで、自内証といって、自己の仏心を証験する。その消息を”本地の風光”とか”無位の真人”と言います。外に求めるな、仏の真実は内なる自己にあり、という行法の姿そのものであり悟りの世界です。それは、道徳でいう自尊心や信念信条、思想というものを形づくる元になるもので、要するに仏の教えということです。

 そうは言っても、我々はなかなかお釈迦様のようにはいきません。「自分は自分で実直と思っていて卑怯は嫌いな男なんだが、この間、嘘をついてしまった。どうもみっともないので、世間体が気になったり、取り繕ったりして、どうも体裁を考えてしまう」というように、なかなか自分の態度が定まらないという習性を持っています。

 精神分析学者の岸田秀氏は、「自己を国家という共同体に当てはめて言うには、日本は、礼儀を重んじ正義感の強い神の国であるのだが、米国のペリーやマッカーサーに侵されたことによって米国に敵意を持ちながら抑圧された内的自己というものと、米国に従いながらしぶしぶ現実に適応する外的自己というものとに分裂している。それは精神分裂病と同じで危機に遭遇すると揺れてぶれるから決断ができない。いよいよ危機が迫ると極端に走る。内的自己が暴発すると正義をかざし戦争を起こす。外的自己が極端になると自虐的になり意気消沈してしまう。分裂状態がある限り極端に揺れるので妥当な線は出てこない。一国としてバランスの取れる考え方を持たなければいけない。」と論述しています。

 己を知ってはじめて事を成す。国家の在り方も人の生き方も同じであるようです。仏教では、有るとか無いとか、楽とか苦とかの両極端に執り着かない自由無碍の在り方を中道ちゅうどうと言います。政治家の日和見的な中道とはまるっきり違います。腰を据えたぶれない信念、更にその向上したところの信心という脊梁骨を自覚した生き方、それを本当の中道というのです。それには只管打坐に如くは無し。
 
 だからといって、足を組んだ坐禅の姿だけが只管打坐ではありません。日常生活の一コマ一コマが全部、只管打坐なのです。それを瑩山禅師は、「はんに逢っては飯をきっに逢っては茶を喫す」と言っています。そのものに徹することで命の本質本源にぶち当たって、尚かつ親しむ。自分とは何ものか、日本とはどういう国なのかということを自覚しなければいけないのです。

 北朝鮮が核ミサイルを持っています。中国は尖閣諸島を盗ろうとしています。さあ、どう動くか。いよいよ日本は正念場です。それとも危機か。あなたはどう動きますか。「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは万法ばんぽうに証せられるなり」(道元禅師)。事に当たって只ひたすら、只ひたすら、という妙術あり。

                     2021.2.25 掲載

コメントを残す