玄沙百雑碎

玄沙百雑碎①げんしゃひゃくざっさい

 十二月八日は、釈迦牟尼仏がお悟りを開いた日です。成道会と言います。涅槃会(お釈迦様の亡くなった日)は二月十五日、降誕会(誕生日)は四月八日で、この三日を三仏忌といい仏教では報恩、感謝、慕古、徳に親しむ、ということで非常に大事にする記念日です。
 さて、今月は成道会にあたるわけですが、苦行六年の後にお釈迦様は悟ったと言われています。疲れ果て、痩せこけているところに村のスジャータという娘に乳粥の供養を受けました。それを頂いて再び自受用三昧の坐禅に入り、二週間の坐禅三昧に入ったといいます。

 十二月八日の暁、明星を一見してこう仰いました。「我と大地有情と同時成道」と。経典によっては「奇哉奇哉、一仏成道管見法界、一切衆生悉具有如来智慧徳相」とも記されています。坐禅の功徳に依って、明けの明星の機縁があり、人生の全て、生命の働き、山川草木森羅万象、今風に言えば自然や宇宙の在りようというものを体感し体得したのです。明星が自分に飛び込んできたのか、それとも自分が明星に飛び込んでいったのか、あっという間に向こうとこっちが一つになったのです。ありとあらゆるものが自分と一緒に、しかも同時に悟ったのです。そこでお釈迦様は本当の真からの自由を得ました。それを解脱とか脱落と言います。脱け落ちた、束縛から解放された、妄想、煩悩のしこりがすっかり解けたということです。

 お釈迦様と星と言うことで、宇宙の話になってしまいますが、大宇宙は200億年前にはじまったそうです。我々の太陽系があって、他の太陽系が2000億個もあってこの銀河が構成されています。そういう銀河系が何千億もあって、その集団としての銀河団というものをつくっています。その銀河団を大宇宙といい、地球から太陽まで光速で8分、我等の銀河系のはじからはじまでは光速で10万年、最も遠い銀河は現在観測されているもので150億光年の距離にあるといいます。大宇宙はまさに広大無辺、阿僧祇劫です。

 ところが、始まりである200億年の昔は、宇宙は超ミクロの世界だったそうです。分子も原子も出来ていない。中身の核でさえ無い。有るといえば、存在するための最小限度の「ゆらぎ」があったといいます。それを零点震動とかいうそうです。宇宙の始まりは超ミクロだったというのなら、なにも宇宙を覗かなくても良いのです。地球上の物質を極微、ミクロまで覗いていくと、同じ「ゆらぎ」の現象があるそうです。挙げ句の果て、極論は極大の世界と極微の世界は同じ状況が起こっていた、ということになります。
 極微の世界から、どうしてこうも大きくなったのかと言うと、有るか無いかの「ゆらぎ」の状態から大爆発、ビッグバンという爆発を宇宙が起こし、それが段々膨らんでいって、200億光年まで膨らみ、いまだに膨らみ続けています。面白いことに、10のマイナス35乗秒の後に物質の素になるクオークというものができ、その3分後には水素が出来たといいます。インフレーションという膨張を起こしながら、物質が進化に進化を重ねながら結合したり離れたり、燃えたり冷えたり、増したり減ったり、生じたり滅したり、と繰り返し繰り返し進化に進化を経て、何千億という星の集まりの銀河ができ、その銀河が何千億も出来たというのです。

 そして150億年後には太陽系ができました。今から50億年前に太陽と地球ができ、30億年前には地球に微生物が出現し、20億年前には空に酸素などの大気ができました。以後順次に山ができ川ができ魚が現れ動物が生まれました。そして哺乳類が現れ、我々人類が200万年前に出現し、今日この様に人間が生きています。


 このように大宇宙、尽十方界、山河大地、草木国土、有情非情、一切衆生は進化に進化を重ね、遺伝子に遺伝子を伝授して来た、唯仏与仏か、師匠と弟子か、親と子か、先祖から子孫か、という因縁があります。ですから、我々のこの身は200億年の歴史を背負っているというわけです。なんと劇的で壮烈で、荘厳で、不思議で、神聖で、深恩で幽玄な事でしょうか。

続く

                     2020.12.8 掲載

玄沙百雑碎②げんしゃひゃくざっさい

 二千五百年前のお釈迦様は数値的な宇宙生命のことは知らなかったとしても、直感では身をもって知っていたことでしょう。自然とは何か、物質とは何か、生物とは何か、人生とは何か、生命とは、命とは何か、その働きとは、その在りようとは何か、を直視されていました。200億年の凝縮されたものが釈尊の身中には生かされており、活溌々地に生かされ、満ち満ちています。澄み切った清浄無垢、涅槃寂静といわれる境涯に落ち着きました。まさにこの在りようが、働きが、仏そのものである、ということに目覚めたのです。しかも、あらゆるものが、全ての存在が、その働きが、仏そのままにしてのはたらきだ、と悟ったのです。

 三世の諸仏、祖師の中にそれを、「万古碧潭空界の月」深い浸みきった潭(ふち)に月が写っているようなものだ、と言った和尚がいました。「古鏡」と言った和尚がいました。

雪峰和尚「此の事を会せんと要せば、我が這裏は一面の古鏡の如くに相似たり。胡来胡現、漢来漢現」
玄沙「忽ち明鏡来たるに遇わん時は如何」
雪峰和尚「胡漢倶に隠る」
 
 青緑に澄み切った碧潭の限りない深いところに写る月は、見事にそのまま写る。碧潭の月がまるごとに自己、自分自身であるならば、自己である月も碧潭も両方が無くなってしまう。自己っきりの時は自己の存在は無い。埃も傷も曇りも無いまったく清浄な鏡と鏡が相い向かえば、何も写らない。見るものも見られるものも共に隠れる。
 

 200億年の時間、200億光年の空間のこの大宇宙、尽十方の尽時尽界の在りよう、働きは皆、神仏、如来、仏性、真如、古鏡 などと言われます。中途半端な古さではないのです。
 

 こんな話しがあります。お爺さんが孫に「お米の一粒の中にも菩薩が宿っている。だから、大事に有り難く頂かなけりゃーいかんよ」と言って聞かせていました。ところが、孫が学校に行って、お昼の時にその事を先生に話したところ、先生は「菩薩なんているわけがない。あるのはデンプンだ。」と言ったといいます。孫が家に帰りお爺さんにそれを話したところ、「がっかりした。ああ、情けない。」と言ったそうです。
 これは一概に先生が悪いのではなく、社会全体がそういうふうになっているのです。私もでついそう言ってしまいそうですが…。
 米がデンプンだという見方は当然大事ですが、菩薩(神仏と

を想定しての)が宿っている、菩薩が隠れている、という見方も大事なのです。
 米がデンプンだという見方は人間はタンパク質と脂肪とカルシウムと水と・・・、ということになります。デンプンは炭水化物から成り立っていますし、炭水化物は炭素と水と・・・というふうにたどっていけば、水素や酸素、更にその構成はというと分子、原子、原子核、クオークというふうになります。これは、もう、200億年前の、その前の宇宙の始まりまで行きます。その始まりの前は何かというと、誰も分かりません。それ以後はというと、人間も米も山も河も草も木も犬も虫も皆、進化に進化を重ね、遺伝子に遺伝子を伝授し、生じては滅し、滅しては生じての繰り返しでついには今このように成り立っています。生かされているのわけです。
 お爺さんは信心で(宗教的直感というのか、老人の体験的智慧というのか)米に菩薩が隠れていることを知っていたのです。命というなまの実物を知っていたのです。数値的、即物的な知識ではなく、米は生もので生きている、人間は生ものだということを知っていたわけです。
 ある会社の入社試験で「雪が融けると何になるか」という質問がありました。その会社としては「水になる」ではなく、「春になる」という答えを希望していたといいます。「時、季節」は正に生きものなのです。(この会社は人間らしい情緒や広い視野を持つ学生を採用したかったということ。)
 雪融け水そのものが春という生もの。草も木も生もので、仏そのものです。人間も勿論生ものです。

続く

                     2020.12.29 掲載

玄沙百雑碎③げんしゃひゃくざっさい

 私の知人のパキスタン人は「(自分が信仰する)イスラム教の解釈も段々、自然主義的になってきた。」と言います。しかし、仏教はアニミズムでもなく自然主義でもありません。
 仏教は神道のように岩にしめ縄をかけて崇拝するような自然主義ではないですが、似たような自然観を持っています。
 仏教では、「釈尊が悟った」「大悟徹底」、脱落した時の第一声が「我と大地有情と同時成道」とありますし、経典によっては、「奇哉奇哉、一仏成道管見法界、一切衆生悉具有如来智慧徳相」とも記されています。ですから、あらゆる生きもの、すべてのものごとを大事にしなければいけないのです。お金や地位(世間的な価値)も大事でしょうが、もっと大事なものは命そのもの、命の実物、実物価値なのです。例えば、身体の生物学的なことで言えば、一番大事なものは空気、そして水、土、食物。それが基本で土台です。
 土台から見直し、生きとし生きるあらゆるもの、一切衆生に目を向けなければなりません。それを慈悲といいます。菩薩の慈悲、無縁の大慈悲ともいいます。
 科学者であっても同じようなことを言っています。ホーキングという科学者が「何故、ビッグバンは200億年前に起こったのか」との質問に対し、「知的生命が進化する為にはそれだけかかるからだ」と答えました。これはキリスト教の神の意思で人間がそういうふうに創造されている、ということではなくて、あくまでも今現在の人間知的生命体の因縁だということです。つまり、発生と進化の因縁で、このような知的生命体である人間は智恵をもらっているのだから、その智恵を活用しなければならない、ということなのです。活用するべき存在だということです。
 仏教で言えば、発心、発菩提心ということです。仏心に目覚める、古鏡を心とする、無縁の大慈悲を発するということです。
「この発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり。今、是の如くの因縁あり。願生此娑婆国土し来たれり」(修証義 道元禅師)という言葉があります。願ったあげく、この上もないこの世に、この地球上に、人間として産まれてきた。発心するのには良いチャンスだ、発心しなければいけない、という意味です。修証義の最後に「一日の行持は諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん」とあります。
どうぞ発心して下さい。

P.S. 古鏡の話には続きがあります。

雪峰「此の事を会せんと要せば、我が這裏は一面の古鏡の如くに相似たり。胡来胡現、漢来漢現」
玄沙「忽ち明鏡来たるに遇わん時は如何」
雪峰「胡漢倶に隠る」

この続きは、
 
玄沙「其れ某甲即ち然らず」
雪峰「汝作麼生」
玄沙「請すらくは和尚問うべし」
雪峰「忽ち明鏡来に遇わん時、如何」
玄沙「百雑砕」

 ばらばらに砕け散った百雑砕の一片は、大宇宙に何百何千億個 とある銀河の一つである我々の銀河。その我々の銀河だけの話しにしぼると、この中に二千億個もの恒星(太陽)があって、その中の一つが我々の太陽。その周りを回っているひとかけらがこの地球。百雑砕の木っ端微塵に砕けたひとかけら。もっと身近になると、地球上のありとあらゆる生物、植物、無生物が木っ端微塵に散らばって生かされ生きている。その一つが自分の身体。この身体を考えてみても、何十兆とある細胞また遺伝子が皆、それぞれひとかけら。
 マクロでみれば、神仏の現れ先であるひとかけらひとかけらは我々の銀河系であって、私がその中心に坐っている。ミクロでみれば、自分の細胞の一つ一つがそれぞれにそれぞれが中心になっている。自己に落ち着いて私は坐わらされている。
 何処を取っても中心であって、自分は自分を自分している。そこは神仏の行ずるところなのです。

 どうぞ、百雑砕のひとかけらを自分のものにしてください。
 

                     2020.12.29 掲載

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