主人公

主人公

 瑞巌和尚は、毎日毎日、自分自身を「主人公」と呼んで自ら「はい」と返事をし、「醒めているか、心は澄んでいるか」と自らに問いかけ、自ら「はい」と答え、「後々も人にだまされることはないな」、「はい」と自問自答する日常でありました。
 主人公とは、なにも自我意識の確立とか、個性の発揮、ということではありません。騙されるな、ということは、猜疑心を起こせとか自分の意見を出せ、ということでもありません。ここでいう主人公とは、もっと根元的なもので、経験や知識以前の命の源をいうのであって、禅では”本来の面目”とか”空劫已前の自己”と言います。自分とは何か、本来の自己とは何ぞや、と本源に向かって掘り下げていく姿そのものなのであります。〈空劫已前: 宇宙が生成される前〉

 本源的なことはさておいて、こういう話しがあります。

 ある高校生がベルギーに一年間の留学をしました。言葉が解らないので、中学校に行かされました。授業は珍紛漢紛、習慣は違う、宿題は出されるわで、ホストファミリーに助けられながら泣き泣き勉強をしました。努力が実り、半年経つ頃から授業に何とかついていけるようになりました。サークル活動や森のハイキングも楽しくなり現地の風土に溶け込んでいきました。あっという間の一年でした。いざ帰国という段になって、日本には帰りたくなくなりました。ケータイ、コンビニ、カラオケの生活に戻るのが嫌になった。という話しがあります。

 この高校生は、モノとカネの消費経済の虜になり、借り物でむなしい情報社会に翻弄されている自分に気付き、翻って、汗を流す生身の生活、痛みを感じる本来の人間性を自らの体験によって発見したのではないでしょうか。
 現代社会はモノを頻繁に買い換え、消費活動を促す消費至上経済社会であります。GDP国内総生産が上がっていかなければ国の経済が成り立たなくなる、というおかしな強迫観念があります。どう見ても地球には限界があるのだから、いつまでも上がり続けるわけがありません。ネズミ講はいつかは破綻するのであります。ケータイにふける子供達、ヨン様を追いかける主婦達、文化や伝統を壊す大人達、張りぼて茶髪文化を求める群衆等々どれもこれも消費の罠にはまって、今の日本には日本が足りないと言われるように、本来の自分を見失っているように思えてならないのであります。

 「貴方は何者か」と問われれば、自分は自分以外の何者でもなく、自分が自分を自営していることは確かなのであります。ゆとり教育が見直されたそうです。だからといって、詰め込み教育が良いわけではありません。学力、思考力とは何か、自分とは何か、社会とは何かを充分に煮詰め、学んでは問い掛け、問い掛けては学ぶ学問というものを小学生から意識づけなければいけないのです。

「主人公、醒めているか、だまされることはないか」

「はい」と。


 禅には又「父母未生以前の消息」貴方は父母が生まれる前は何をしていましたか、という問い掛けがあります。

                     2021.1.3 掲載

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