密師伯と兎

 密師伯みつしはく和尚と洞山とうざん和尚の二人が行脚あんぎゃにでた。歩いていると、そこに突然、白兎が目の前を走り過ぎていった。密師伯和尚が「すばやい!」と感心していると、洞山和尚は「それがどうしたと言うのか」と言った。そこで密師伯和尚は「平凡な人が総理大臣に任命されるようなものだ」と言った。すると洞山和尚は「貴方のような大層な大人がそんな子供じみたことをいうのか」と。密師伯和尚は「では、君はどうなんだ」と言った。すると洞山和尚は「立派な家柄が今では落ちぶれて貧乏生活だ」と言った。

 これは何だろうか。人生いろいろ、なんて歌があったが、そんなものでは片付けられない。志村けん氏が新型コロナウィルスに感染し昨年三月に亡くなった。感染したニュースがあって、その後、一週間もしないうちに逝去してしまった。あっという間の出来事であった。国民的人気者なので、多くの人が悲しんだと思う。テレビで楽しんだので、もう見られないと思うと残念である。指定感染症で亡くなった際のその処置というのは、仕方ないのかもしれないが酷いもので、入院中から会えず、会えた時はお骨になっている。志村氏のお兄さんが涙ながらに訴えていた。医師や看護師は必死に治療されたと思う。病院は修羅場の連続であったと想像するが、ニュースで知る限りはあっと言う間の出来事であった。

 お兄さんは、五ヶ月程経った八月になって、やっと弟の死を心情的に受け入れられるようになったと言う。医師からは、志村けん氏の場合、仮に治ったとしても重い後遺症が残ると言われていたそうだ。そういう容態もあってか、喜劇芸人のまま死んでいって良かったと言っている。死んで良かったと言う訳はないのだが、そこまで言えるということは、あっという間の死に七十年という志村けんの喜劇王としての存在が全肯定されている。七十年という人生全部があっという瞬時に収まっている。

 人生は一瞬、脱兎の如く、速きこと疾風に似たり。凋落も一瞬。栄華も一瞬。自分の一生は一瞬。一日の中に自分の一生が収まっている。さらに言えば、一瞬の中に過去を含め永遠が収まり、永遠が毎日毎日の自己の生きざまということになろうか。永遠を仏といえば言い過ぎになるか。一瞬が仏と言えばあっけないか。

 そこで気の持ちようとしては、楽しいことは現実、嫌なことは幻想という心持ちを訓練するのはどうか。

 時の人、一株の花を見ること夢の如くにあい似たり(古語)。一株の花が夢だというが、それよりもまして、自分というものは夢の如くなる自分なのである。

2021.3.29 掲載

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